昭和56年2月17日 朝の御理解                 中村良一

御神訓
一 信心は本心の玉を磨くものぞや。



いよいよ、信心とは、本心の玉を磨くものと。んー、分かるというか、思い込ませていただくというか。ここにいたって、初めて、一生が修行だなぁという事も分かりますし、えー、信心辛抱もいるんだ。教えも頂かなければ分からないということになるのです。ほんなら、信心とは、本心の玉を研くものだから、あー、研きさえすれば良いじゃないかと。その、研く術が分からんのです。ね。または、あー、研く楽しみ、研く喜びが分からんのです。教えに基づいての本心の玉を研くでなからんと、いわゆる、信心の楽しみも、喜びも、または、天地との交流、天地のリズムも聞きとる事が出来ん。そういうおかげを、頂く事のために、えー、日々、合楽通いをしておるんだという事を、一つ本気で思わなければ、分からなければ、あー、金光教の信心の値打ちはないと。もうこれは、私は、本当にいつも思うんですけれども、その、本心の玉を研かなくても、その、いわゆる、お参りをすれば、おかげを頂くもんですからね。いつもおかげに、やっぱ、腰掛けるんです。そして、たまにはもう、本当にびっくりするような、奇跡とも思われるようなおかげにも触れますもんですから、まぁ、それこそ、何時もかつも奇跡的なおかげを受けられるのじゃないのだけれども、おー、ま、何時も、それこそ、何ていうですかね。柳の下に、何時もどじょうは住まないとかという諺がありますように、そこで、大きな魚を捕らえたからというて、何時も、そこに大きな魚がおるという事ではないのだ。けれども、何か、そういう、夢のようなおかげを、心に描きながら信心をする。おかげをいただかなければならんから、お参りをする。まぁ、お参りの修行もすると言うのが、どうしても強い。金光教の信心、もう、教祖の神様は、はっきり、それを、本当に人間が、信心しておかげを受けてくれよという事は、信心によって、徳を受けて、そして、その徳による助かり、ね。心が助かり、喜びに満ちてくる。ね。その喜びに集まる、人間の幸せの条件が足ろうて来る。だから、どうでも、そこん所。
昨日、おー、久留米の矢次さんところの、まぁ、恒例の宅祭りでございましたから、あちらへやらせていただいてからも、皆さんに聞いていただいたことでしたけれども。もう、本当に、それこそ、沢山な人がおります。えー、夕食、あちらでお食事を頂いてから、お祭りまで、時間がありますから、先生方が、足を揉んでくれますから、しばらく休んでおった。東側が道路になってますから、東枕で寝とりますと、もうその下を、車がもう、あそこの狭い通りで、町ですけれども、もうとにかく、ひっきりなしに、車が通ってる。で、そのひっきりなしに通る車の事を思うて、まぁ、あれに、一人二人、または、三人と乗っておるわけだろうけれども、あの車の、いたり来たりしておるのが、何を目的に、いたり来たりを、言うなら、うろうろしておるのだろうか。みんなが、我情のためであり、我欲のためだと、まぁ、思わせていただいたことでした。ね。もう本当に、というて、なら、表を走っておる自動車の全てが、その、我情我欲のためというか、ほんなら、合楽にこうやって、沢山、毎日通うてくる。ほんなら、沢山、あぁしてお参りがあっとるが、本当にあの、何であげんお参り、やっぱ、おかげを頂くけんだろうかというのならば、もし、それは、我情我慾のために、やっぱり、お参りをしてきているという事になるんです。ね。もう、せめて金光様の御信心させて頂く者、せめて合楽にご縁を頂いた者だけぐらいは、本心の玉を研く、いうならば、手掛かり、本心の玉を研かせていただく事のために、その楽しみが、合楽通いだという事にならなければいけないなぁという風に、昨日は、まぁ、話を聞いていただいたことでございました。どうでしょうか。今日は、どの手で、まぁ、勝とうかという風に、まぁ、前の晩に、相撲取りが考えるわけでしょうけれどもね。ように、ね。やはり、あの、御道の信心させて頂く者はです。今日はどの手で、研かせて貰おうか。御理解を頂いて、ヒントを得て、そして、今日一日の、いわば、支えを、そこに焦点を置いて、今日一日も過ごさせていただこう。これが、本心の玉を研く事なんだ、ね。真に教えを行じて行くと、ね。いつの間にか、研かれる。いつの間にか改まらせて貰えておる。五年経ち、十年経ち、なるほど、十年も経ったら、わが心が拝めれるように、必ずなる。ね。そこの、合楽の久保山さんではないですけれども、七年経ち、八年経ちしておるうちに、ただただ、外の事は分かりませんけれども、その日、一日の事の、いうならば、成り行きそのものを、神様の御働きとして、いよいよ今日も、成り行きを大切に尊ばして下さいというだけの信心でありましたけれども、いつの間にか、我情が、非常に少なくなっておる。我欲が、段々なくなっておる自分に、気が付いて、びっくりしておられる。ね。成り行きを大事にするという事の中には、ね。いよいよ、黙って治めるという信心も入ってくるでしょう。ね。また、自分を、本当に見極めなければならない事にも、直面するでしょう。ね。そうしていくうちに、ほんなら、今度は、その信心を、最近では、嫁も理解してくれるようになり、先日のお届でしたけれども、今度の御本部参拝には、主人も、御本部参拝させて頂こうかというておるというように、周囲のものも、それを感じてくれておる、認めておってくれる。
昨日は、近所の方の、お取次ぎのお願いがあっておりましたが、ね。やっぱりその、近所の方達も、段々、その信心をしておられる、そのあり方というものが、言うならば、本心の玉が研かれるにしたがって、少し、光りが出てきたような感じがするです。どうでも、合楽の村、全体に、金光様の光を、そういう願いを立てて、最近おられます。楽しみになってきた。どこに、近所に病人さんがあるといや、誰も知らんけれども、その方のお届けをなさる。そして、大変、快方に迎いよりなさるという事を聞きゃ、それが有難いとして、お礼を言うておられる。ね。いつの間にか、そういう心が育ってきておる。いつの間にか、我情が取れてきておる。いわゆる、あぁなりゃ良かが、こうなりゃ良かがというような。そら、毎日、やっぱり、なら今日は、畑の何々の仕事、今日は誰々のと、お届けなさいますけれども、ね。それは、お互いいうけども、それから先は、神様にお任せしてある。それから先はもう、成り行きそのものなんだ。右と願ったことが、左になってまいりましても、それは、成り行きとしていただいていくうちに、我情が取れてくる、我欲が取れてくる。ね。それに、なら、びっくりするほど、自分が、自分ながら変わっていっておる、まぁ、言うならば、われながら、わが心が、段々、拝めれるようになっていっておる事に、驚きを感じておられる。というような信心者が、合楽に、いっぱい出来なければならないし、また、そういう信心なら、必ず、いうならば、楽しさ、喜ばしさが生まれてくるです。私は、三四日、前でしたか、北野の江口の、あの、青木ツルヨさんて言う、大変、篤信な方ですけれども、もう、あの、お参りになったらもう、顔を、くしゃくしゃにしてから、その、感動しておられるんですよ。もう今日は朝からもう、とにかくもう、お参りをするとおもうただけで、心が躍って、心がもう、ドキドキするように、いわゆる、憧燃心である。ね。これは、本心の玉を研くという事、その事が信心だと分かってくるとですね。確かに、心がね、神様に対する憧燃の心というものが、募ってくるんです。ね。もう、例えば、二日も、三日もお参りもせんなら、もう、とにかく、やはりもう、淋しゅうして応えん。思わず信心が出来る、本心の玉を研く、その修行そのものが有難うなって来る。ね。もう、それこそ、ここへ座った途端に、声上げて泣き出したいような感動が起こってくる。信心ちゃ、それが有難いんです。ね。そして、そういう心に、また、本当に、たったこのくらいな信心に、こんなにおかげを頂いても良かろうかというようなおかげが、段々、段々、集まってくるようになる。心が広うなってくる、豊かに、大きゅうなってくる。自分の我情が、我欲が取れてくるに従って、自分の心は、いよいよ、有難う、豊かに、大きくなっていく。育っていく。しかもそれは、限りなく続けられていかなきゃならん、また、続けていかずにはおれない。また、ほんなら、そういうおかげのほうもです、願わんでも、頼まんでも、豊かに大きくなってくるんです。だから、根本的に、どうしても、信心とは、本心の玉を研くものだ。さぁ、今日は、どの手で研こうかという心の構えを作っての、合楽通いになって来ないとね。本当のおかげにならない。いうならば、和賀心が生まれない。和賀心になろう、和賀心になろうと。さぁ、なかなか難しかと思いよったけれども、教えを本気で行じさせていただいて、それがほんなら、七年、八年とこう、段々、なっておったら、いつの間にか、いうなら、本心の玉を研くという事が、こんなもんだという事が分かってくるようになり、ね。もう、私はこの、信心とは、この本心の玉を研くものだと。なら、どういう手立てで研かせて頂いたら良いか。そこを、まぁ、合楽理念は、ま、それこそ、縦横無尽に説くわけです。難しい人には難しく。または、あー、子供には、年寄りには、それでおかげが頂けれるような、もう、そして、そのおかげの実感体験というものがです。もう、本当に有難いと思うたら、それが人にも伝えていけれるようになる。
昨日、綾部さん、あちらへ、矢次さんところに、おかげ頂いておられましてからのお話でしたが、昨日一昨日は、あー、別府の、おー、何とか教会という、ご親戚の方の、何か、霊祭が、その教会でありましたと。それであの、こちらから、親子、おー、お孫さんも連れて、三人で行かれた。もう、黙って、信心頂いておるといった様な事は、話さずにおりましたら、親戚の誰かが、あの、綾部さんは、久留米の教会に参られるんですよと言われた。それで、向こうの先生方夫婦、ご直会が料亭だったそうですから、料亭に見えておられて、あぁ、久留米ですか、久留米ならというて、あー、久留米の、チコチコ話よりなさったところが、久留米も、久留米じゃあるけれども、合楽というところですと言われたら、もう途端に態度が変わられた。もう、とにかくもう、あのー、まぁ、私は、びっくりしました。合楽の、どういう事からか知らんけれども、変わられた。そして、その先生が言われるのに、息子さん、あの、和義さんに言われて、「お母さんが参りなさるなら、あーたも、参りよりなさるじゃろ。」「はぁ、私も、まぁ、親孝行のつもりで、まぁ、時々、自動車に乗せていくぐらいのこっです。今度、寒修行には、まぁ、欠かさずお参りしました」ち言うた。そしたら、その孫さんが、四年生ですかね。「純一君。僕もほんなら、お参りしよるじゃろ」「はぁ、祖母ちゃんと一緒に、時々参る」ち言う。で、その、信心の話しになったんだそうです。そしたら、純一君が、私はもう、横で聞きよって、びっくりしたと言うて。「僕は、今度の寒修行で、一番初めに親先生に、おしっこが出らんようにお願いさせて頂いたら、おかげ頂いて、それ一遍切りでおかげ頂いた」ち、話したそうです。もう、それが大変、やっぱ、子供ながらも嬉しいんです。だから、お参りすりゃ、こういうおかげが受けられるち言うて、その先生達夫婦に話した。そしたら、はぁ、ちいうて感心されたという事を、昨日、綾部さんが言っておられましたがね。もう、本当におかげ頂いたという事は、嬉しゅうして、人に伝えなければおられないわけです。ね。
私は、まぁ、これは、そん時も、いつかお話しましたでしょうけれども、その、ここでぼそぼそ、何か、子供が言いよるんですよ。先生は、耳が遠いけん、まちっと大きな声で言わにゃ分からんよち言うたら、もう、目に涙をいっぱいためてね。僕、おしっこがその出るけん、おしっこが出らんごとお願いしますと言うんですよ。もう、あの一生懸命が、おかげ頂くんだなと、私は、あん時、思ったんですけれども。あくる日から、おかげ頂いて、夜中にね、おしっこでんしたら、お婆ちゃんの部屋にお神様がお祭りしてあるから、お神様に、お礼に出てくるそうです、夜中に。ね。おかげで、それっきりおかげ頂いたと、と言うようにね、その、一心とか、一生懸命とかという事になってこなければ、おかげも頂かれませんし、同時に、ほんなら、今日は、本心の玉を研くという事においてもです。いわゆる、本気で、一心にならなければ駄目なんです。ね。で、そして、本気で、本気で一心に、本心の玉を研くためには、ほんなら今日は、どういう御理解をもってと、それこそ、今日はどの手でというような、あの、構えを持って合楽通いが出来る。そこから、生き生きとした、日々の、いわゆる、信心生活が出来ることになる。そして、ほんなら、五年、十年と経っていくうちに、われながら、わが心が祭れれるような、ね。それが、ほんなら、いうならば、嫁にも伝わり、主人にも伝わり、近所の方たちにも伝わっていくほどしの物になってくる信心の、いうならば、喜びと、驚きを、日々、感じさせて頂けれるおかげを頂くのです。おかげを頂いて、段々、いわば、人情、人間心も使わんで済むようになり、心情一筋に、おかげ頂けていけれるようになり、いうなら、神様との、日々の交流が、有難いというところまで、信心を高めていけれる、言うならば、もう、本心の玉というものはもう、一生、研き続けるもんだと思うです。ね。もう、事毎に、その事を通して、ね。この事を通して、本心の玉を研くものだという頂き方を、ひとつ、本気で、思い込ませていただいて、そして、本心の玉を研くという事に、一心を立て、一生懸命に、それに取り組むという事だと思います。どうぞ。